{people}菅野 博 さん hiroshi.kanno
0470- の3代目編集長であり、千倉の海の生活雑貨店「安房暮らしの研究所」の所長であり、この春から新たな旅のために南房総から離れた菅野さん。今回は特別号として、これまで取材をする側だった菅野さんへのインタビューをお届けします。
インタビュアーは写真家・飯田裕子さん。今号からウェブメディア 0470- として新しい編集室のメンバーで始動する僕たちに、このインタビューのご提案をいただき実現した企画です。
0470- にも度々関わってくれており、房総のことをずっと見つめてきた飯田さんの視点で、菅野さんを深堀りしていただきます。(カマダ)
Interviewee:菅野博
Interviewer:飯田裕子、鎌田真史(0470- 現編集長)
はじめに
本日は安房暮らしの研究所所長の菅野博さんのインタビューということで、安房から伊勢志摩へのお引越しの最中、雨の降る千倉潮風王国でお目にかかりました。
今まで多くの人のインタビュー記事を作ってきた氏ですが、0470- 読者として菅野さんご自身のことや安房暮らしの総括的なお話を聞いてみたいという素朴な感情が湧き起こり、実現に至りました。
飯田
0470- では安房の人をインタビューして本当に多くの方を紹介されたのですね。
菅野
0号から75号までやっているので75人、それは people というコーナーのインタビューなので他の記事を含めると100人は超えてくると思います。
飯田
そんな菅野さんから今日はいろいろなお話を聞き出したいと思いますが、以前にインタビューは受けたことありますか?
菅野
安房暮らしの研究所オープンの時に取材を受けたりは多少。やはり仕事柄、執筆依頼が大ですね。
飯田
今回は少し個人的なお話も聞けたらと思っています。
幼少期・学生時代
飯田
菅野さん自身のご出身はどちらなんですか?
菅野
両親が福島で、生まれたのは母の実家のあった相馬市ですけど、両親はもう東京に住んでいたので育ちは東京です。
飯田
引っ越しもなく?
菅野
板橋区内で何度か引越ししたことはありましたがずっと東京です。
飯田
昭和48年のお生まれということで。
菅野
はい、今年51になる歳になので、1973年生まれ。ちょうどオイルショックの年に生まれた世代ですね。ま、人口がマックスな、、時。
飯田
生徒数も多かった?
菅野
はい。高校は10クラスあったし、1クラス40人以上。常に競争の世界の中で生きてきた感じです。大学受験もですけど、常に競いながら生きてきた感じです。
飯田
そうそう、順位をつけられたりね。私も昭和35年(1960年)生まれですが、船橋という新興住宅地で学校は確か1学年10クラスは普通で、子供が増えてきて学校もどんどん増えて拡大していた時代でしたし、そういうのが当たり前な時代だったよね。そんな中でご両親はどんな感じだったの?教育ママとかいう言葉もあったけど。
菅野
いや。どちらかというと自由にやらせてもらってました。
飯田
兄弟はいらっしゃる?
菅野
3つ上の姉がいて姉の影響を結構受けていました。特に聴く音楽だとか観るテレビ番組など。
飯田
ああ、そうだったんですね。
菅野
両親はどちらかというと、モノづくり系。母は裁縫が得意だったり、父は日曜大工が好きだったり。
飯田
今の言葉で言えばクラフト系の人。
菅野
う~ん。ものづくりの血が入っているんですかね、ボクの中にも。
飯田
デザイン的なものに家の中でも触れる機会があったのですね。
菅野
はい。
飯田
お母さんが服のデザインしたり布を選んだり、そういう事が家庭環境の中にあったわけですね。
菅野
今でも忘れられないのが、1998年のiMac(アップルコンピューター)の登場。あれがものすごく欲しくて、買ったときの嬉しさは今でも鮮明に覚えています。それをきっかけにデザインへの関心がさらに深まったと思います。とにかくiMacで作ることに快感すらありました。
飯田
一番今の自分に繋がっている幼少時の出来事はなんなのでしょうね?マックをいじったり、家庭で目にするものや使うものから、きっと菅野さんなりの目が育っていったんでしょうね、目利きというか、、。
菅野
出会う人で変わっていった気がします。出会いが積み重なって、今の価値観が形成されてきたと思います。明らかな思考の変化は南房総へ来た時ですね。ま、それまではごく普通の一般人のような感じですかね(笑)。
ボクは大学時代からマスコミに入りたくて、マスコミの勉強ができる大学を探して明星大学という大学に入ったのですが、就職活動では出版社へは入れずに、結局広告代理店に入ることになって。
鎌田
そもそもマスコミにそんなにこだわったのはなぜだったのですか?
菅野
ボク、小学校の時にマンガを作っていたんです。6〜7人いたと思うんだけど、それぞれが作品を作ってそれを集めて作ってクラスで回し読みみたいなことやっていたんですけど、それが影響していたんだと思います。
鎌田
絵も描いていたんですか?
菅野
絵も描いてストーリーも書いてました。
鎌田
その延長でマックで絵を描いたりもしていたんですね。
菅野
なんかDNAにあるんですかね。
鎌田
アートとか編集とか。
飯田
それで都会のシティーボーイとして生きていたわけですね。
菅野
いや、板橋区なんで(笑)。コンクリートの中での暮らしが当たり前だったし。
南房総との出会い・移住・結婚
飯田
その中で生まれ育っていたら、それしか知らないですよね。それでいきなり自然の多い南房総千倉へ移住ですね。
菅野
なんとなく旅行では来ていましたけど、南房総に暮らそうというきっかけを与えてくれたのは真魚長明さん*なんです。
*真魚長明-南房総市和田町の古民家で「テトラスクロール」というお店を営んでいた。0470-初代編集長。
飯田
ああ、そうだったんですね。
菅野
大学を卒業して広告代理店に入り、20歳の後半に D&DEPARTMENT という会社に転職。デザインに関わる幅広い活動をしていて、そこで作っている小雑誌があり、その小冊子を真魚さんから扱いたいという連絡があったんですよ。「南房総の和田町でこの雑誌を取り扱いたい人がいるんだ!」と凄く驚きました。
で、後日どんな人なのか気になって会いに行ったんです。訪ねて行った時、真魚さんが和田浦の海水浴場に連れて行ってくれた。その時の何とも美しい海と水平線。その時に思いました。「ここに住む!」と。それくらいボクにとっては衝撃的な出来事でした。
飯田
和田の海との出会いだったんですね。
菅野
はい。あれがなければ絶対に来てません。
飯田
海との出会い、子供の頃かとかどんな感じでした?
菅野
ボクは何となく「海洋民族」を祖先に持っているのかなと思います。母方の実家が福島県相馬市の磯部という港町。母はそこで育って、ボクも幼少期は年に一度里帰りで訪れたりしていて、海への想いは強かったように感じます。
今回、ボクは三重県志摩市に移住しますが、志摩市にも磯部という地域があるのです。だからなんとなく繋がっている、導かれたような感じがしています。
飯田
海辺暮らしに移った時に急激な暮らしの変化ではなかったですか?
菅野
でも、準備をするのに2年くらいかかったんじゃないでしょうか。行き来しながら物件を探していました。
鎌田
こっち来たのもお店をやろうかなと思って来たのですか?
菅野
なんとなく漠然と。どちらかというと南房総に住みたい気持ちの方が先でした。
鎌田
ここで暮らせるなら、お店じゃなくても他の仕事でもいいとか。
菅野
そうですね。まずはここに暮らしたいと。
飯田
優先する目的は仕事よりも「ここに住む」ということだったんですね。
菅野
そうですね。南房総に住み始めて、安房研のようなお店がないからやってもいいのかなと。好きな場所で好きなものたちに囲まれていたいということですね。
飯田
それを実現し、その後奥さんとも結婚したのですよね。
菅野
奥さんは D&DEPARTMENT の時代のスタッフで古い友達でした。その子が後から追っかけて来たみたいな感じ。
鎌田
奥さんもこっちが気に入って?
菅野
はい。お店をオープンして1年くらいの時にこっちに遊びに来てくれて、その時の印象がとても良かったみたいです。お店をオープンして3年くらいでこちらへ来てくれました。
安房暮らしの研究所について
飯田
今はなき安房暮らしの研究所になってしまいましたけど、そのコンセプトを改めて聞かせていただけますか?
菅野
2010年12月3日にオープンし、コンセプトは Made in Japan。日本全国の良いものを紹介してその中に安房地域のコーナーを作ったり、全国のフリーペーパーを集めたり、漁協の建物だったのでその金庫をギャラリーにして展示したり、ワークショップやったりなど。徐々にやることが増えていった、、と、そんな感じです。
飯田
日本の良いものをセレクトしたお店でしたよね。でも伝統工芸とかではなく、暮らしに密着した良いもの、どこの誰の家にもあるもの、普段使っている歯ブラシやスコップとか、昭和の時代に生まれた「あ、これあったよね」と子供の頃にお世話になったモノを安房研で見つけて。
「ああ、まだこれ作っているんだ。販売してるんだ~。」みたいな、こだわりを持ってモノづくりを続けている小さな会社や工場が頑張っているんだ、という気づきもありました。宣伝やPRするでもないけど、良いモノを発掘しているんだなあ、と思いました。
菅野
それは前にいた会社の社長のナガオカケンメイさん(ロングライフデザインを推奨している)の影響があるんですけど、やっぱり高度成長期に作られたものというのは「熱」を感じるのです。
今のものに関して言えば「こういうのがあったらな」いうお客様からの要望を意識したものづくりだったりするんですが、あの時代には「自分たちが作りたいものを作る!」みたいな熱い情熱を感じる。マーケティングなど一切無視のものづくり。本当にみんなががむしゃらに日本を成長させる想いが感じられます。安房研には中古品を扱うコーナーもありましたが、やっぱりいいんです。昔の商品は。売れてしまうと少し寂しくなったりします。
飯田
やっぱり良いものは時代を超えて残るというのはあるよね。
菅野
そうですね。そういう製品を扱うお店が全国を見てもそうなかったから、そういうテーマにしてやってみても良いかな?という感じです。もちろんスーパーやホームセンターにもボクが扱っている商品はあるんです。でも、光り方が違うと思います。
飯田
スポットライトを当てるみたいな。確かに今の時代はマーケティングが先で商品を作るみたいな風潮があるけど、それをあまり気にしなくても良かった時代だったのかも。
菅野
はい。欲しいものを純粋に作っていったという。
飯田
次に志摩市にできるお店もやはりそういうコンセプトになるのですか?
菅野
そうなると思います。ただ、最近のボクの思考にも変化がありまして。
飯田
どういうふうに?
菅野
何でもやります!という感覚です。
安房研は「生活雑貨店」という括りでやっていましたが、飲食店や映画館のようなものもあっても良いと思いますし、来て下さった皆さまが楽しんでもらえるような場所を作りたいです。
新しいコンセプトは「地球での暮らし方」です。
この時代に生まれたきたすべてのものたちに感謝しながら、楽しく穏やかなに暮らせる世界を皆さまと共に考えていきたいですね。
飯田
ちょうど高度成長期に海外嗜好みたいな風潮も出てきたけど、菅野さん自身はそっちへいったことはないの?
菅野
あまりないですね。海外への憧れみたいなのはありましたけど。ボクが行って良かったと思った国はオランダ。街並みの色つかいやお店のロゴデザインだとか、ひとつひとつ可愛いなっていうのがありましたが、それよりもやはり目の前にある日本のことを知りたい、極めたいな、というのが優先してる感じです。
飯田
確かに今インバウンドで海外の人が日本のいいところを発見してる。ほぼ鎖国状態だった日本が海外の人の目に触れて、そのユニークさを指摘されたり、見直されていることがいっぱいありますね。日本人的には普通だったけど「そうなんだ、これって普通じゃなくて稀なことなんだ」みたいな気づきも促されたりしてますね。
菅野
そういうことをお店を通じて伝えていきたい、みたいなことはありますね。日本はまだまだ奥深い。
飯田
本当に深いですよね。山の文化、海の文化、街の文化、江戸時代も凄かったし。
0470- での出会い
飯田
自分で媒体を持つという、まさにマスコミですよね。企画して、自分で取材もして記事を作ることをされてきた中で、その中で印象的だった人やコト、頭に浮かぶのはどんなことでしょう?
菅野
飯田さんにもご登場いただいてますよね。
飯田
最初の頃でしたね。
菅野
単なる情報誌ではなくて、南房総を深く知ることのできる媒体をということで、2010年に南房総に来てまもなく、真魚さん、前田くん、岩松さん、ボクで 0470- をスタートしました。当初、飯田さんにも写真提供してもらったりして。その当時のこともかなり印象的でしたけど、特に印象的だったのは今はなき館山のレストラン「コンコルド」の佐久間さんへのインタビューですね。
飯田
真空管へのこだわりもあった方なのでそれなりに予習もしなくてはならないし?
菅野
いや、予習はインタビューには必要不可欠だと思っていますし、インタビューする上での最低限のマナーだと思っています。事前にその方のことを徹底的に勉強して、インタビューでさらに深掘りしていく。それがボクのインタビューのスタイルです。佐久間さんについては校了するまでにかなり時間がかかったなと。最初はインタビューもNGだったんですけど「絶対にインタビューしたい」と思って。
飯田
ああ~、口説き落とすまでの苦労が。
菅野
お店に何度も通って、だんだんと親しくなって、それからようやくインタビューさせていただき、その後も仲良くさせて頂きました。佐久間さんと夜な夜なラーメンを食べに行った記憶は今でも忘れません。
飯田
出会いだったんですね。コンコルドは館山の名店でしたね。芸術家のサロン的な場所でもあって、マスターもスタイルを持った方でした。音楽喫茶という響きも今では懐かしいですね。
菅野
インタビューをきっかけに、いろいろな時間を過ごさせてもらい、安房で出会った思い出深い人です。
南房総の魅力
飯田
南房総の良さって離れるとまた感じることありますよね。なかなかこういうところ無いって。
菅野
ないですよね。空が大きく見えるところってなかなか無いし、外房の海の見事な水平線。こういった場所もなかなかないんじゃないでしょうか。
全国を回ってみると、津波を気にして高いところに住まいを変えたり、東北は東日本大震災後、高い防波堤ばかりが建って、普通に海岸から海が見えない感じになってしまいました。他の場所でも近年そんな感じがするのに、南房総はなんてゆるやかなんだろうって。もしかしたら漁師さんたちが、高い堤防とかに反対しているのかな?テトラポットもそんなに見ないですし。
飯田
岩場の磯だからでしょうかね?
菅野
地形も関係しているかと思いますが、ここまで水平線が綺麗に見える場所ってそんなにない。これから住む志摩市にもけっこう高い防波堤があるんです。それと南海トラフが怖くて、海沿いから皆どんどん離れていってるので、海に近い物件に空きがあるような状態です。このような状況は全国的に起こってると思います。だから海沿いの街が消えつつあるみたいな、そんな状況なんですけど、南房総に至ってはあまりそういうことは感じないですね。
飯田
今、勝浦から千倉まで海沿いを南下してきて、新しいヴィラが結構建ってますよね。
菅野
南房総は東京から近い場所にも関わらず、残っている絶景ポイントですね。
鎌田
しかも、海を高台から見下ろすのではなく同じ目線に海がある感じで。
飯田
高い山がないので風景が優しいですよね。だから空が広くて。
菅野
女性的な景色と言えますね。
飯田
私は今勝浦に暮らしていて、上総の国になるんですけど、熊野に似ていますよ。海から急に山になって平地が少ないリアス式だから、空はあまり広く見えなくてトンネルが多くて。そこから南房総へ来ると「は~」って息を抜けるような感覚があるの。緊張感が解けるような。鴨川から南下して和田の海に入ると、空と海が開けてね。
菅野
ああいうドライブができる道って、そうない気がします。
飯田
九十九里のほうも海と空が開けるけどね。
菅野
でも海の色が違いますよね。
飯田
そうですね。海の浅瀬の色、潮の流れとかで違うのよね。
菅野
僕の奥さんもそんな理由でここが大好きで。
飯田
志摩市へ行くのにう~んて感じなのかな?(笑)
菅野
今回はボクがどうしても動きたい気持ちが強かったので、少しはあったかもしれません。ただ、志摩半島も空は広く、海も英虞湾をはじめとした湾と太平洋が楽しめる場所です。
飯田
そうね、本当に津々浦々。15分も車で走れば全く違う風景に出会えますよねここは。でもどこも威圧的じゃない優しい風景ですね。では、もしかしたらまた戻ってくる可能性もゼロじゃない?(笑)
菅野
(笑)よく「2拠点生活」ってあるじゃないですか。ボクはよくある都市と田舎の2拠点じゃなく別の場所での2拠点はありかなと。
飯田
どんどん南下していってね(笑)
菅野
ボクはやはり黒潮ラインの海が好きな感じがしています。黒潮の影響を受けている半島に何ヶ所か拠点をおくのは面白いと思います。
飯田
そういえば話は変わりますが、景観の良さに甘んじていると、あらぬ方向に開発されたりというケースもあるじゃないですか。バブルの時期にもそういうことがあって、私が長く関わってきた群馬県の川場村では土地を売らないで守って今があるのですが。
鎌田
南房総エリアでも、僕の祖父が三芳村で地域トラスト的なやり方で山の木のオーナーを募り、企業にまる買いされないようにしたことがあります。
菅野
三芳村って意識が以前から高いところだと思ってました。南房総はこれからどんな風景になっていくのかな。
飯田
でも、東京の隣の県という便利さもあるので2拠点の場所には選びやすいかも。
菅野
変に開発されないと良いのですが、これからも美しい南房総であり続けてほしいです。
聞き手 プロフィール
飯田裕子 YUKO IIDA
フリーランス写真家 (房総半島在住)
(公社)日本写真家協会会員
1960年 東京生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業在学中に三木淳氏に師事
1981年 卒業直後 写真展「海からの便り」をニコンサロンにて開催
1988年 シルクロード南路を走るラリーにオフィシャルカメラマンとして参加をきっかけに、辺境アジアやオセアニア島嶼など日本人と同じ血を引く人々が暮らす場所の自然か文化に眼差しを向け多くの雑誌媒体に寄稿。
「ファレ!パシフィカ」「フィジーの魔法」「海と人と鯨と」など写真展多数。
近年では2022年「海からの便り II」をNikon The garrely新宿、大阪で開催。
写真集「Desert alive」「フィジーの魔法」(共著)「長崎の教会」(共著)
最近はBay FMのメインビジュアルを担当し、南房総の海の写真を展開。
1999年より南房総に拠点を移し22年暮らした。今は勝浦と館山の房総2拠点暮らし。
母との介護暮らしのフォトエッセイをオンラインで連載中
小学館介護ポストセブン 「介護という旅の途中に」
https://kaigo-postseven.com/157668